歴史概略

古墳時代

 平生町は瀬戸内海に細長く突き出した室津半島の付け根に位置しています。
この地に人々が住みついたのは約4500年前、縄文時代中期にさかのぼります。平生町佐賀地域にある岩田遺跡(県指定)からは、この時代に使われていたと思われるたくさんの土器や石器、ドングリの貯蔵穴群が発見されています。
また、海路が主だったこのころ各地との交流が盛んだったことを示す証拠として、九州や関西、中国大陸との交流を示す品や土砂なども多数発見されています。

 町内にはこの時期に作られたとされる前方後円墳が3基あります。その中でも神花山古墳は県の史跡に指定されている重要な文化財です。これは、5世紀前半にシャーマン的力をもってこの地を納めていた若き女王の墓で、その骨は朱でおおわれ、組合式箱式石棺に納められていました。

 このほかにも、全長120mという山口県最大の前方後円墳白鳥古墳からは県指定文化財の二神二獣鏡や鉄斧などの鉄製品、巴型銅器などが出土しています。

広大な白鳥古墳は5世紀に作られました

県指定文化財の「巴型銅器」
(白鳥古墳出土)

県指定文化財の「二神二獣鏡」
(白鳥古墳出土)

飛鳥時代

 町内にある古寺、般若寺は用明天皇の勅願で創建されました。これは、用明天皇の后として上がるはずだった般若姫を弔うための寺です。597年、19歳だったとされる般若姫が豊後の国(大分県)より都に上がる途中、大畠灘で嵐を鎮めるために身を投じて亡くなった悲劇は「般若姫伝説」として平生町に長く語り継がれています。

 般若寺の観音堂右側にある日光・月光の窓は、毎年陰暦の大晦日、丑寅の刻、海上から上がる火の玉がするすると移っていくという不思議な噂もあります。

火の玉が通るという般若寺観音堂の日光・月光の窓

般若姫物語 抜粋

江戸時代

 財政策の1つとして、強力に新田開発を進めた長州藩。その一門で、当時、平生のほぼ全体を治めていた大野毛利氏は平生湾一帯の大規模な開作を行いました。7年という長期工事で、約120haの耕地と20haの塩浜を完成させることに成功しました。これをきっかけに、防長塩の一大生産地となった平生は山陰や北陸、九州にまで販売ルートは広げられ、経済的にも急成長を遂げました。

 また、開作地は海面よりも低いため、海水の侵入を防ぎ雨水の排除の必要性が出てきました。そこで、当時最先端だったオランダの樋門技術を採り入れた「南蛮樋」がつくられ、昭和60年に大内川排水機場第1号ポンプが起動するまで約350年にわたって役割を果たしました。

「寄せ」という塩分の濃くなった砂土を集める作業をする
当時の様子(平生町民具館蔵)

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